ユウキノシンサイについて


新陰流の伝書の九箇の必勝の太刀の記述の中に「ユウキノシンサイはシュリシュリケンと使う」という既述が出てくるのをご存知でしょうか?

柳生厳長先生の「正伝新陰流」では、このユウキノシンサイというのは、関東の結城氏の一族の誰かであろうという推察をしていますが、今までこのユウキノシンサイとは誰なのかということは謎とされてきました。

しかし、ルイス・フロイス著の「日本史」のなかに、結城山城殿(結城進斎)という名前を見つけました。

この結城進斎は、松永久秀の配下で、

「彼は学問および交霊術において著名であり、偉大な剣術家で、書状をしたためたり添削することにかけて有能であり、日本の学問の程度に応じた天文学にはなはだ通暁していた。」

という既述があります。

このユウキノシンサイについては過去にいろんな人が研究してそれぞれの推察をしていますが、決定的な説が出てこなかったのは、この結城山城殿がキリシタンに改宗していて、またその息子も同じくキリシタンに改宗していた上に若くしてなくなっているために子孫も残らず、後の歴史に大きく残っていない為なのかもしれません。

いつかこの結城氏についていろいろと調べてみようと思っていましたが、なかなか機会がないので誰かがこれをみて研究の材料にでもして頂ければと思います。

以下にフロイスの日本の歴史中の結城山城守について書いてある部分を引用します。

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中公文庫刊「完訳フロイス日本史〈1〉 織田信長篇Ⅰ 将軍義輝の最後および自由都市堺」

第13章(第1部37章)
P152
「・・・既述のように、当時天下の最高統治権を掌握し、専制的に支配していたのは松永霜台(久秀)であった。
すなわち、彼はその点、偉大にして稀有の天稟の才能の持主であった。
彼は完全に服従せしめていた大和の国の、奈良の市に近い多聞山という立派な一城に住んでいた。
そして五畿内においては、彼が命じたこと以外はなにもなされぬ有様であったから、位階や門閥においては、彼を凌駕する多くの高貴な人たちが彼に奉仕していた。
その人たちの中に結城山城殿という一老人もいた。彼は学問および交霊術において著名であり、偉大な剣術家で、書状をしたためたり添削することにかけて有能であり、日本の学問の程度に応じた天文学にはなはだ通暁していた。
彼には、かくも多くの稀有の才能が集まっていたので、彼は天下のもっとも高貴な人々から非常に敬われ、松永霜台は彼に幾多の行為を示していた。・・・」

第14章(第1部38章)
P162
「司祭(ヴィレラ)は遅滞することなく、さっそく大和国に向かって出発し、結城進斎を訪れたところ、彼はその来訪を大いに喜んだ。
司祭がしばらく結城殿および(清原)外記殿と語らった後、ある宿に落ち着いたところ、そこへはおびただしい聴衆が参集した。
それらの人すべてにまったく満足のゆく説教が行われ、ほとんど全員が聴聞したことに理解を示した。
しかし彼らは、そこには多数の仏僧がいるのと、人々は彼らに対して畏怖心を抱いていたので、キリシタンになるのを思い留まった。
すなわち、彼らはキリシタンになったのを仏僧たちが知ると、自分たちを殺させるか、家財を没収しはしまいかと恐れたからである。
かくて彼らは現世のものを失うことを恐れるのあまり、永遠のものを断念した。
しかし結城殿と外記殿は、もう一度特に説教を聞き、聴聞した最高至上の教えにまったく満足し、両人は聖なる洗礼を受けるに至った。・・・」

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