人物紹介


人物紹介


尾張藩につたわった新陰流の主な相伝者、門弟等を紹介してく予定です。


上泉伊勢守秀綱(後、改め信綱)

新陰流の開祖。新陰流縁起には「陰の流を根元にし、諸流之奥義の位心持を、其の身の工夫を以って加え、新陰流と相改め申し候。」とある。

上州大胡城主として長野業重の搦手の大将であったが、甲斐武田による箕輪城攻略の際、信玄に降伏を勧められ、之に従い武田氏の家臣となるが、後に暇乞いを信玄に許され、新陰流の工夫鍛錬の為に諸国回国修行に出た。

廻国の途中、伊勢の国司北畠具教を訪ねたが、誰一人上泉に対応できるものは無く、上泉に対応できるものは柳生宗厳(石舟斎)をおいて他に無いときき、紹介を得て石舟斎を訪ねた。石舟斎、上泉と試合をすること三度(伊勢守の弟子の意伯という話もある。)、すべて同じ勝ち口にて敗れ、廻国の途中であったが宗厳に請われ半年柳生に留まり宗厳に新陰流を伝えた。

そして柳生を立つに際し、
「予、多年研鑚せし無刀にして勝ちを制するの術、未だ工夫足らず其の理法を明了するを得ざるを深く恨む。
子尚春秋に富めりこの道を開明する者恐らくは子を措いて天下人なかるべし。」
と、無刀の工夫を依頼し、西国に回国修行に就いた。

西国回遊を終え近畿に数年滞在したが、(このとき柳生を訪ね、石舟斎に一国一人の印可を授けた)後、下野国結城氏の紹介を得て関東へ向かった。その後の上泉の動静は分かっていない。

天正元年に亡くなったと某書に見られるとの事。

伊勢守が免許を出したのは、(新陰流縁起によると)他に、疋田文五郎・伊勢守の息子・丸目蔵人・香坂要がいた。



柳生石舟斎宗厳

神取新十郎より新当流を学び、五畿内一の兵法者として知られていたが、後に流祖上泉に師事し、新陰流の道統を継いだ。

実際には上泉より直接教えを受けたのは最初の半年間で、その3年後、流祖上泉が柳生に立ち寄った際に無刀の考案を示し、一国一人の印可を授けられた。

石舟斎が免許を出したのは、(新陰流縁起によると)柳生新次郎・久三郎・久斎・徳斎・又右衛門・甥柳生作右衛門・家来柳生松右衛門・村田弥三、等がいた。



柳生久三郎

柳生新次郎の嫡子。十八歳の時、朝鮮の陣にて討死。




柳生利厳

柳生新次郎の次男。新陰流の三世。

弟子に、佐野九郎兵衛・高田三之丞・三井久右衛門・塩川五郎左衛門・長野数馬等がいた。



柳生権右衛門(三五郎)

柳生新次郎の三男。仙台藩へ出仕。




徳川義直



徳川光友


柳生清厳

名は清巌、初め権平と称す、号を任去斎、又委心といふ、如雲斎の長子なり、善く家業を継く。
義直擢でて小性となし、別に禄三百石を賜ふ、幼にして読書を好み、詩歌を善くし、嘯咏自ら娯む、
長じて疾あり、之を久しうして愈えず、
依りて禄を辞して仕を罷め、一室に蟄居して、足地を履まず、
会々肥前島原に賊起り、月を踰えて平がず、清厳之を聞き、自ら奮って曰く、吾不幸にして廃侯に嬰り、汚名身を辱しむ、豈久しく生きて人間に在らんや、命を此役に殞し、耻を雪ぎ憤を解くの愈れるに如かずと、因りて有馬の温泉に浴するに託し、竊に島原に赴き、軍監石谷十蔵貞清に請ひて、松倉右近の軍に属す、
実に寛永十四年十二月二十七日なり、
家人の従ふもの安藤仁兵衛儀玄、武藤太左衛門儀信、及び草履取彌蔵、槍持某なり、
明年正月元日諸軍と城を攻む、清厳衆に先んじて進み、十文字槍を以て賊を殺すこと数無し、後槍を棄てゝ刀を揮ひ、舅を鼓して奮撃し、銃丸に中りて死す、
儀玄儀信、及び彌蔵も亦之に死す、
是より先清厳書を裁して父に貽り、其告げずして出でたるを謝し、又諸弟に嘱するに善く母に事ふるを以てす、乃ち髪を剪りて信と為す、
別に一詩を書して姑夫天野四郎右衛門、及び白林寺喝堂に示す、
曰く 西風一陣来、黄柳塹辞枝、看々得春色、香名不朽時。
而して之を槍奴に嘱して曰く、吾戦死を期す、汝是を以て帰りて其状を告げよ、生死皆忠なりと、
奴己むことを得ずして会に従ひ、清厳の死するに及びて、遺書と槍とを携へて還る、槍柄削れるが如く、坐ろに其奮闘の状を想はしむ、
清巌死する時年二十四、儀玄二十五、儀信彌蔵共に二十九、
法諡して韶室宗陽禅定門といふ、
府下の人士之を聞きて、往きて吊し、歔欷流涕し、歎称せざるはなしといふ。



柳生利方

初名は正厳、後利方と改む、如雲斎の次子なり、
父の儀を襲ひて寄合、供番となり、家声を殞さず、後藩の世子光友の目付となりて剣法の師たり、
慶安中将軍家光、其名を聞き、召して江戸に至らしめ、親しく其技を観、頻りに善と称す、人皆之を栄とす、
延宝二年九月鉄炮頭となる。
天和元年病に依りて辞して馬廻となる、
老後如流斎と号し、貞享四年八月二十二日、年六十八にして没す。
一溪如流居士と法諡す。



柳生連也厳包



徳川綱誠


柳生厳延



徳川吉通



島槙右衛門快楽



長岡房英



柳生厳儔(としとも)



徳川宗春


柳生厳春


長岡房吉(柳生左助)



長岡房弼(柳生厳光)




長岡房成

名は房成。通称は惣三郎・五左衛門。
桃嶺は号。
桃嶺は家芸の剣術を修めるとともに、父・房英より制剛流の伝受を受け指南した。
天保四年(一八三三)隠居して家禄を子権六房懼に譲る。
桃嶺は、また学問を好み、詞章にも深く通じていた。
嘉永二年八月十三日没、八十六歳。
法号は仙寿院真源桃嶺居士。



長岡権六房躍


柳生厳政



柳生厳之



徳川斉朝



徳川治行



飯沼左源太守儀



長岡兵十郎房恭


柳生厳廣

名は厳広。通称は六助。
尾張藩の剣術師範・柳生新六厳政(明治五年七月十一日没)の二男。
父について家芸の剣術を学び、文久二年(一八六二)新たに一家を起す。
大番となって十二石三人扶持を給され、元治元年(一八六四)五十俵となる。
その後、書院番並・小納戸・中奥小姓等を勤め、足高百俵により、百五十俵となる。
吉原黄山について俳句を学び、晩年には陶芸を楽しみ、また竹細工に巧みであった。
明治三十八年十一月六日没、八十歳。
法号は木人斎天外流々居士。



柳生二左衛門義質



柳生厳久



徳川慶怒



柳生房義



柳生厳蕃




柳生一義




柳生厳周
古武術(新陰流兵法)と整体のTen’s Page 厳周写真



柳生兵治
 あまり知られていないが、先代の厳長先生の兄。
才能もあり次期後継として期待されていたが、若くして脳膜炎で亡くなった。


柳生厳長
古武術(新陰流兵法)と整体のTen’s Page 厳長写真

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