新陰流って?
俗に「柳生新陰流」などと呼ばれていたりしますが、正式には「新陰流」といいます。
これは、新陰流の正統が柳生家に伝わったという誇りを持ってあえて新陰流と名乗っているんだ、柳生新陰流などと呼称すると新陰流が柳生家に伝わった亜流と成ってしまうではないか!!そうではないんだ!!という事をここで言っているわけです。
※これは尾張柳生家に伝わった新陰流についてです。他の系統については知りません。
どこかの掲示板で、一刀流でも本来の小野家伝の一刀流はただ一刀流とのみ呼称して、小野派一刀流というのは小野家から分かれた所謂中西派の一刀流の人達が自分たちの一刀流は小野家の一刀流だと言うために小野派と名乗ったのであり、中西派一刀流というのはこの小野派一刀流を外部の人が呼称するときによぶ名称であって、実際には中西派一刀流という流儀は無いんだという話がありましたが、これと同じ様な事と考えてよいと思います。
最近は言われ慣れていたりするので一々説明するのも面倒くさいのですが、結構この辺りにこだわりを持っていたりして・・
また、この辺がややこしいんですが、新陰流をまた、「柳生流」ということもあります。
新陰流の正統が柳生家に伝わったために、柳生流=新陰流ということになりますが、それでも柳生新陰流という呼び方は間違いなんですね。
※正確には柳生家の兵法に後に取り入れられたものを含めて柳生流、その中の新陰流というように区別していたみたいですね。だから柳生流には居合いを含めて良いけど、新陰流には居合いは無いなんてよく分からない話があったりして・・
※その昔、旧柳生会(厳長先生の頃の)に書かれた本等を見ると、流祖上泉が石舟斎に相伝した新陰流と別に「但馬守の剣道即ち新陰流極意の道と但馬守独自の真実無刀の道たる剣道・心法の大徹了底の道を一体として、特に柳生流と号した」とあり、「新陰流即柳生流の無二の関係である」と有ります。
※旧柳生会時代に書かれた「剣道・抜刀術一流の歴史」という本中に、流祖上泉伊勢守の一族、上泉孫四郎(後に尾張に住み子孫を残している)が伝えた新陰流の居合が尾張柳生氏にも伝えられているとあるが、現在は(Tenの知る限り)正確に伝えられていない(と思う)。これを伝えているという所もあるが、根拠の有る資料を見たことがない。
(外部の人間には見ることが出来ないだけで実際にはあるかもしれないんですが・・・)
(ちなみに、この上泉孫四郎は後に民弥某と名乗っていた時期があり、この頃に伝えた流系を民弥流といいます。あの埼玉の黒田鉄山氏のやる民弥流のルーツはここにあるそうです。名古屋で伝書にあたっているとたまに民弥流のこの頃の伝書に出くわすことがあります。)
流祖上泉伊勢守は、上州(今の群馬県辺り)の人で、若いころから諸流を学んだ剣の使い手で、愛洲日向守に就いて陰流を学び、この中から「転(まろばし)」を工夫発明して新陰流を興しました。
そして、流祖上泉から次に大和(今の奈良県)の柳生氏に伝わり、柳生流が生まれたわけです。
柳生流の流祖は、柳生石舟斎宗厳です。石舟斎はもともと神取新十郎から新当流を学び、五畿内一と呼ばれていた兵法者でしたが、上泉と試合をして敗れて後、上泉に師事して上泉から「一国一人」の印可を与えられ、柳生流の開祖となりました。
その後、新陰流の道統は、石舟斎の五男の宗矩(江戸柳生)、石舟斎の孫の兵庫助(尾張柳生)へと伝えられ、江戸柳生は、柳生宗矩からその息子である十兵衛、宗冬へと伝えられます。
尾張柳生は、柳生兵庫助が尾張徳川義直に仕え、代々尾張の地で新陰流の正統を伝えて来ました。
・尾張柳生開祖、柳生兵庫助
兵庫助は、祖父石舟斎より「一子相伝」の印可を受け、尾張初代藩主義直公の兵法指南となり尾張柳生の開祖となりました。また、兵庫助は、「直立ったる身の位」を工夫発明しました。
・柳生厳包連也
厳包は、藩主光友と相謀り、「取り揚げ使い」を発明しました。
また、厳包は上泉、石舟斎の昔の教えを「本云」、兵庫助の新しい今の教えを「厳云」として新陰流口伝書内伝を著述し、摩利支尊天の像に密封して、「これを開封する者は尊天の神罰を蒙て盲目となるべし」といい開封することを厳禁し、後世に残しました。
・中興の祖、柳生道機斎厳春
道機斎の時代には既に新陰流の口伝術伝があいまいになった時代でしたが、厳包の秘した秘書を開封し、柳生流を中興しました。
※厳春の父親である厳儔は新陰流に一大改革を起こしたとされる名人でしたが、厳春が14才の時に亡くなっており、厳春は高弟達により相伝を受けたという話もあります。
・中興の補佐、長岡房成桃嶺
桃嶺は兵法師範家の補佐として古来の新陰流の口伝術伝をまとめ、そのすべての伝書についての詳細な解説をおこないました。また時代に即応するため、諸流を研究し外伝試合勢法をまとめました。(古来相伝の太刀を内伝とし、それに対する外伝とした。)
※桃嶺の口伝書外伝の一節に
「初学試合に当たって、勝ちを制するの方を知らずして邪路に陥る者多し。因って房成古今の必勝転勢を本とし、先哲の教えを持って質し、大略試合の勢法を作為し、以って方を同士の初学に与ふ。」
「外伝とは予、連也翁の口伝書を内伝とするが故也」
とあります。
これは、新陰流の正統が柳生家に伝わったという誇りを持ってあえて新陰流と名乗っているんだ、柳生新陰流などと呼称すると新陰流が柳生家に伝わった亜流と成ってしまうではないか!!そうではないんだ!!という事をここで言っているわけです。
※これは尾張柳生家に伝わった新陰流についてです。他の系統については知りません。
どこかの掲示板で、一刀流でも本来の小野家伝の一刀流はただ一刀流とのみ呼称して、小野派一刀流というのは小野家から分かれた所謂中西派の一刀流の人達が自分たちの一刀流は小野家の一刀流だと言うために小野派と名乗ったのであり、中西派一刀流というのはこの小野派一刀流を外部の人が呼称するときによぶ名称であって、実際には中西派一刀流という流儀は無いんだという話がありましたが、これと同じ様な事と考えてよいと思います。
最近は言われ慣れていたりするので一々説明するのも面倒くさいのですが、結構この辺りにこだわりを持っていたりして・・
また、この辺がややこしいんですが、新陰流をまた、「柳生流」ということもあります。
新陰流の正統が柳生家に伝わったために、柳生流=新陰流ということになりますが、それでも柳生新陰流という呼び方は間違いなんですね。
※正確には柳生家の兵法に後に取り入れられたものを含めて柳生流、その中の新陰流というように区別していたみたいですね。だから柳生流には居合いを含めて良いけど、新陰流には居合いは無いなんてよく分からない話があったりして・・
※その昔、旧柳生会(厳長先生の頃の)に書かれた本等を見ると、流祖上泉が石舟斎に相伝した新陰流と別に「但馬守の剣道即ち新陰流極意の道と但馬守独自の真実無刀の道たる剣道・心法の大徹了底の道を一体として、特に柳生流と号した」とあり、「新陰流即柳生流の無二の関係である」と有ります。
※旧柳生会時代に書かれた「剣道・抜刀術一流の歴史」という本中に、流祖上泉伊勢守の一族、上泉孫四郎(後に尾張に住み子孫を残している)が伝えた新陰流の居合が尾張柳生氏にも伝えられているとあるが、現在は(Tenの知る限り)正確に伝えられていない(と思う)。これを伝えているという所もあるが、根拠の有る資料を見たことがない。
(外部の人間には見ることが出来ないだけで実際にはあるかもしれないんですが・・・)
(ちなみに、この上泉孫四郎は後に民弥某と名乗っていた時期があり、この頃に伝えた流系を民弥流といいます。あの埼玉の黒田鉄山氏のやる民弥流のルーツはここにあるそうです。名古屋で伝書にあたっているとたまに民弥流のこの頃の伝書に出くわすことがあります。)
1、新陰流の流祖は?
新陰流というのは、戦国時代に、流祖上泉伊勢守秀綱によって始められた剣術です。流祖上泉伊勢守は、上州(今の群馬県辺り)の人で、若いころから諸流を学んだ剣の使い手で、愛洲日向守に就いて陰流を学び、この中から「転(まろばし)」を工夫発明して新陰流を興しました。
そして、流祖上泉から次に大和(今の奈良県)の柳生氏に伝わり、柳生流が生まれたわけです。
柳生流の流祖は、柳生石舟斎宗厳です。石舟斎はもともと神取新十郎から新当流を学び、五畿内一と呼ばれていた兵法者でしたが、上泉と試合をして敗れて後、上泉に師事して上泉から「一国一人」の印可を与えられ、柳生流の開祖となりました。
2、柳生家-江戸と尾張
その後、新陰流の道統は、石舟斎の五男の宗矩(江戸柳生)、石舟斎の孫の兵庫助(尾張柳生)へと伝えられ、江戸柳生は、柳生宗矩からその息子である十兵衛、宗冬へと伝えられます。
尾張柳生は、柳生兵庫助が尾張徳川義直に仕え、代々尾張の地で新陰流の正統を伝えて来ました。
3、尾張柳生-新陰流正統の歴史
・尾張柳生開祖、柳生兵庫助
兵庫助は、祖父石舟斎より「一子相伝」の印可を受け、尾張初代藩主義直公の兵法指南となり尾張柳生の開祖となりました。また、兵庫助は、「直立ったる身の位」を工夫発明しました。
・柳生厳包連也
厳包は、藩主光友と相謀り、「取り揚げ使い」を発明しました。
また、厳包は上泉、石舟斎の昔の教えを「本云」、兵庫助の新しい今の教えを「厳云」として新陰流口伝書内伝を著述し、摩利支尊天の像に密封して、「これを開封する者は尊天の神罰を蒙て盲目となるべし」といい開封することを厳禁し、後世に残しました。
・中興の祖、柳生道機斎厳春
道機斎の時代には既に新陰流の口伝術伝があいまいになった時代でしたが、厳包の秘した秘書を開封し、柳生流を中興しました。
※厳春の父親である厳儔は新陰流に一大改革を起こしたとされる名人でしたが、厳春が14才の時に亡くなっており、厳春は高弟達により相伝を受けたという話もあります。
・中興の補佐、長岡房成桃嶺
桃嶺は兵法師範家の補佐として古来の新陰流の口伝術伝をまとめ、そのすべての伝書についての詳細な解説をおこないました。また時代に即応するため、諸流を研究し外伝試合勢法をまとめました。(古来相伝の太刀を内伝とし、それに対する外伝とした。)
※桃嶺の口伝書外伝の一節に
「初学試合に当たって、勝ちを制するの方を知らずして邪路に陥る者多し。因って房成古今の必勝転勢を本とし、先哲の教えを持って質し、大略試合の勢法を作為し、以って方を同士の初学に与ふ。」
「外伝とは予、連也翁の口伝書を内伝とするが故也」
とあります。